日立法人会の社会貢献活動の一環として、管内に所在する旧跡などをご紹介します。

法人会とは

法人会は、よき経営者を目指すものの団体です!
最新の税情報の案内や各種セミナー等の開催など会社経営に役立つ様々な 事業活動を行っております。

公益社団法人 日立法人会
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長久保赤水の墓

長久保赤水の生涯について長久保赤水生存中の85年間は、8代将軍吉宗から11代家斉にあたり、水戸藩では5代藩主宗翰から6代治保にあたる。特に治保のときは文運復興の時代でもあった。こうした情勢下に、赤水は享保2年(1717)に長久保氏来住地、赤浜村字町の五代貞永の庄屋屋敷で誕生した。その後は祖父母・両親・親族の愛護により農民の子として成長したが、祖父母を失い、8歳のとき両親・弟(2歳)・農夫と共に字北...
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松村任三生家と長屋門

松村任三(まつむら・じんぞう)1856年(安政3年)~1928年(昭和3年)理学博士・元東京帝国大学(現東京大学)教授。日本植物学の先駆者。ソメイヨシノやワサビに学名をつけた人松村任三の生家は、関根橋を渡って松岡小へ向かう道路の左側の茅葺きの門のある家で、任三は江戸時代1856(安政3)年、松村儀太夫の長男として生まれた。9歳で松岡領の「就将館」(しゅうしょうかん)(現在の松岡小敷地)に学び、明治...
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小場遺跡

小場(おば)遺跡所在地 高萩市大字上手綱小場小場遺跡の概要この遺跡は、阿武隈山地から東に張り出した標高約47メートルの台地にあって、縄文時代中期、後期、晩期(約4500年前から2300年前)にかけて古代人生活を営んでいた集落・祭祀跡である。常磐自動車道の建設に伴い昭和59年に、6023平方メートルにわたる遺跡発掘調査の結果、縄文時代の配石遺構181基、竪穴住居跡29基、土坑344基、溝5条、埋甕1...
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台車と炭車

台車(左)・炭車(右)高萩地方で採炭が始まったのは江戸末期といわれていますが、産業として本格的に採掘が行われるようになったのは明治中期のことです。明治期から昭和初期にかけて炭鉱はエネルギー産業の中心として発展し、特に戦後まもないころには石炭は唯一の動力源として重要視されました。しかし、昭和30年代のエネルギー革命によって石炭は石油にその地位を奪われ、高萩の炭鉱も昭和42・43年に相ついで閉山しまし...
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北宿並木一本松

高萩市指定文化財 史跡北宿(きたじゅく)並木一本松昭和52年11月8日指定所在地 高萩市本町4丁目5番地この松は樹高16m、幹周り2.1mあり、慶長11年(1606)に当時の岩城海道に植えられたものといわれている。かつては高萩市内にも多くの松並木があり、この松並木も寛政元年(1789)には、三町二間(約330m)にわたって72本の松が植えられていたと記録されている。しかし現在は、この1本が残ってい...
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穂積家住宅

県指定文化財 穂積家住宅一. 名称穂積家住宅4棟主屋1棟、長屋門1棟、前蔵1棟、衣装蔵1棟敷地4172.71平方米(穂積家所有)附 屋敷絵図屏風1雙一. 指定年月日 平成元年1月25日(建第675に指定)一. 所在地 高萩市上手綱1337番地一. 所有管理者 高萩市概略穂積家住宅は、江戸時代後期の民家として貴重なものである。この住宅の主体をなす主屋は、五段茅葺屋根寄棟造りで寛政元年(1789年)の建築...
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修路記念碑

この石碑は、穂積竹二郎氏が道路の改修を行ったことを記念し、その顛末とあわせて知人らが寄せた詩や祝辞を刻んだものです。文中にある「青木子爵撰する所の修路碑」は松岡地区公民館前の碑を指します。修路記念碑  題額 福利愈進 昭和戊辰東園基光題公務を執る者、必ずしも公益を図らず、民政に任ずる者、必ずしも民福を構ぜずして、往々にして虚名を衒(てら)い、私利を貪る者少なからず、是れ豈(あに)現時の通弊に非ざる...
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日弁の墓

中老越後阿闍梨日弁聖人聖人は、もと天台の学僧にして、日蓮大聖人身延山在栖中、その教化に浴せる高弟なり。法華経弘通の大願やみ難く、夙に日本北辺の開教を志し、冨士山麓を後に、静岡、神奈川を圣て千葉に入る、更に茨城、福島、宮城各県に亘り宣教、多くの寺院を開創す。宮城県角田市佐倉に至り、説法中、暴徒の凶刃に遭い殉教さる。随行の弟子2人、信徒4人等、急ぎ遺体を擔い、敵地を逃れ、当地に到着するや、柩動か...
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長久保赤水誕生地

長久保氏の遠祖は九州の大友氏。応仁の乱のころは駿州(静岡県)長久保城々主でした。戦国時代北条氏綱に攻めおとされ東国に落ちのび、初め久保田十郎(いわき市)に保護され、のち車氏(北茨城市)にも仕えました。赤浜のこの地は、江戸時代初期その直系長久保貞仲(作之丞仲俊・■■院)が帰農定住した所です。この子孫は代々赤浜村の庄屋を勤めました。地政学者赤水(1717~1801 伝五兵衛 源五兵衛 子■ 玄珠■■■生まれ...
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願成寺

碑文慶長12年(1607年)16代篠原尾張守彰純、佐竹転封の混乱の世に、有縁無縁・新規宿縁の別なく、その埋葬・回向のため、所領を割き、小野矢指東裏に私有共同墓地を創設。爾来茲に4百年に垂らんとす。星霜流れ270年、明治維新に際し25代市十郎、時代の変遷を深く見極め、墓地の維持・継続を慮り、同憂の志と相図り、自らを筆頭地権者とし共有墓地として明治政府に申請す。涅槃寂静を希い、安らかに眠れる祖父の霊、...
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鈴木玄淳の墓

高萩市指定文化財 史跡鈴木玄淳の墓昭和52年5月10日指定所在地 高萩市大字下手綱418番地鈴木玄淳(1703~1784)は、友部村(現十王町)に生まれ、のちに下手綱で医を開業した。その後数十年にわたって農村指定の教育とあわせて、医学の門下生の養成にあたり、松岡七友の中心的役割をはたした。名は玄淳、号は松江で、鱸は魚のスズキをもじった字である。碑文は彼の教えを受けた長久保赤水の撰によるものである。...
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鈴木滝二郎の墓

墓碑・碑文瀧二者石瀧里正鈴木治衛門之季子也以文政十年丁亥二月十日生甫三歳譜誦百人一首讀古状四歳學字筆勢自備五歳讀孝経大学各一月而能終篇於是郷邑號奇童遂聞国府天保壬辰二月郡官賜四書■字帖紙筆三月上公賜小學■思録癸巳三月上公豫遊于湊之別舘始■召見讀孝経書千字文是以上公親把糖巣召而■是更■古事記八月上公北巡■令■謁子石師町田午春余寓ニ高萩村也及来學讀論孟小學近思録乙未二月係疾屢加於■愈醫薬無効不■短命天保...
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