日立法人会の社会貢献活動の一環として、管内に所在する旧跡などをご紹介します。

法人会とは

法人会は、よき経営者を目指すものの団体です!
最新の税情報の案内や各種セミナー等の開催など会社経営に役立つ様々な 事業活動を行っております。

公益社団法人 日立法人会
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野口雨情の歌碑2

童謡詩人野口雨情あなたは野口雨情をご存知ですか。雨情(明治15年~昭和20年)は、北原白秋、西条八十と共に日本三大童謡詩人に並び称されています。豊かな童心を核とし、素朴な香りをまとったその作品は、いつもやさしく私たちの心になじみます。「赤い靴」「雨降りお月さん」「あの町この町」「青い目の人形」「しゃぼん玉」「蜀黍畑」など、あなたもきっと口づさんだことでしょう。脈々と愛唱されている雨情の歌は、不思議...
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風船爆弾放流地跡 わすれじ平和の碑

風船爆弾放流地跡この辺一帯は 昭和19年11月から昭和20年4月の間 アメリカ本土に向けて風船爆弾を放流させた地です背後の低い丘と丘にはさまれ 現在は田んぼに復元されている幾つもの沢に 放球台や兵舎 倉庫 水素タンクなどが設置されていましたこれは極秘の「ふ」号作戦といわれ 放流地はほかに福島県勿来関麓と千葉県一の宮海岸 あわせて3か所でしたが 大本営直属の部隊本部はこの地にあり 作戦の中心でした晩...
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八幡宮

平安期の頃関本里根川沿岸の長良千軒と言う一部落が洪水の為流され其の難民の一部が今の長浜(当時長良浜)に住み後天正の頃この地を開拓平方(後に平潟と改称)と命名一団体が独立した平潟港は仙台江戸間の唯一の自然港である寛永年間仙台藩がここを築港し海路運送を始めた寛文十年伊勢国の大冨商人河村瑞賢が幕命により仙台荒浜より江戸間の航路を開拓平潟港に番所を設け陸奥の国よりの食糧を敏活にかつ正確に江戸に運び忽然とし...
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茨城観光百選 平潟港

昭和60年に開催する「つくば科学万博」の関連事業として県民総参加による茨城観光百選投票の結果 この地平潟港が「茨城の新しい顔」として全国に紹介されることになった。これを記念して建立するものである。昭和60年2月吉日北茨城市長 柴田章北茨城市 茨城県(観光物産課)...
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北白川宮御上陸遺蹟碑

慶応4年(1868)5月28日、戊辰の役で旧幕府軍の彰義隊に擁立された北白川宮能久(よしひさ)親王が、上野戦争を避け東北に逃れる途中、ここ平潟港に上陸し陸路、会津若松に向かった。仙台藩に迎えられ奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されるが、仙台藩が官軍に降伏後京都に蟄居。のちに新政府の陸軍に入り、近衛師団長として台湾征討のため出征中、マラリアに罹患して現地で薨去した。...
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震洋特別攻撃隊基地跡

第138震洋隊の練成基地の「特攻ボート」格納トンネル跡。昭和20年(1945年)6月10日、第138震洋隊開設。部隊は福島県いわき市小名浜に配備されたが、ここ平潟港はその練成(訓練)基地。隊員は土浦予科練第14期修了者48名。装備された「特攻ボート」は全長6.5メートルのベニヤ製2人乗りのボートで、艇首に250キロ爆弾を装備し、敵艦に体当たりするもの。しかし、この部隊は結局出撃せずに終戦を迎え、昭...
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史蹟 神岡一里塚

平成2年3月吉日建之華川公民館歴史教室講師 小松徳年先生   受講生一同石工 東小川亥之吉一里塚とは、大きな道路(街道)の両脇に1里(約4km)毎に旅行者の目印として設置された塚(土盛り)。一里塚が全国的に整備されたのは江戸時代で、江戸幕府により日本橋を基点に全国の街道に一里塚の設置の命令が出され10年ほどで完了した。...
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無縁諸霊供養之碑

昭和42年建築工事のため当所岩山を整地中偶々横穴式古墳が発見され人骨及遺品が出土した憶うに絶えて弔う事なきこの諸霊の供養を志し茲に碑を建て微志を捧げる昭和47年4月24日二ツ島観光ホテル 中野義定建之(副碑・碑文より)...
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通りゃんせの像

通りゃんせの像この像は、昭和35年5月5日国道舗装の完成を祝って建てられた。二ツ島という風光明媚の地に、往き交う人々の旅情をなぐさめてくれればと念じつつ建立され、当時、野口雨情詩「あの町この町」からヒントを得てつくられたこの二人の童が、通りゃんせのポーズをしているところから、いつとはなしに「通りゃんせ」の像として親しまれるようになった。題名も作者名も不明のまま路傍の彫刻として放置されていたが、道往...
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忠魂碑・英霊之碑

(忠魂碑)(英霊之碑)慰霊詞山緑に水清き華川の里に育まれ若き身を以ちて皇御国の御楯となり■■■西南の役より初まり日清日露戦争。尼港事件。満洲事変。支那事変を経て大東亜戦争■至るま■度々の戦役に家を忘れ身を忘れ大和魂を振起■■遥るか十里の外■征■■■東■厳寒の荒野に炎熱地を焦す南方の密林或は波浪逆巻く大海原に或は大空高く飛翔廻りて物量共に優れたる敵軍を撃破し数々の勲功を立てたる■幾十代にも語り継がるる事ならむ。...
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浄蓮寺

由来八葉山浄蓮寺は、858年(天安2年)に天台宗三代目の慈覚大師が、奥州山寺(山形県山形市)創立の帰途、当地に立ちより、道場を開いて自ら阿弥陀如来像を作り安置しました。1190年(建久年間)ごろ源頼朝公から五十石、領主の車丹波守義秀公より寺領百石を受け、寺勢をきわめて二十余りの末寺を配下におきました。寺は1574年(天正2年)兵火に遭い、大半の古記録を焼失したほか、1848年(嘉永元年)にも火災に...
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浄蓮寺三十三体観音

(如意輪観音)(千手観音)浄蓮寺は、八葉山遍照院といい、慈覚大師が858年(天安2年)開創した寺であり、修行の寺として栄えました。三十三体観音の作者及び年代は不明ですが修行僧の方々が発心して、西国、或は坂東の霊場を模したものかは不明ですが、三十三観音信仰に基いて造られた磨崖佛であり、渓流に面した深い林の斜面に花崗岩が点々と露出し、それに刻まれています。観音像は聖、十一面、馬頭、如意輪、千手観音など...
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花園神社

花園神社は今より千二百年前の昔、桓武天皇の御宇延暦十四乙亥年(795年)4月18日、征夷大将軍坂上田村磨が勅定により奥州下向の折創建され、平城帝大同二年(807年)4月花園山と号づけ現在に至っております。(説明板より)...
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