日立法人会の社会貢献活動の一環として、管内に所在する旧跡などをご紹介します。

法人会とは

法人会は、よき経営者を目指すものの団体です!
最新の税情報の案内や各種セミナー等の開催など会社経営に役立つ様々な 事業活動を行っております。

公益社団法人 日立法人会
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茨城県日立市幸町1-21-2
TEL.0294(24)2211
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岡倉天心の歌碑

五浦岬公園(碑文)泣ひて笑てまた泣ひて残る涙が命の綱よ露を命の蟋蟀沈沈 沈地露淋沈々地 沈地露淋沈々淋々沈地露淋月なき秋のやるせなや天心詞 ■■■※■は判読不明。【場所】北茨城市大津町五浦...
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五浦海岸の渚と波音

五浦岬公園より見る(説明板)五浦は、五ツの浦が開けていることから、その名が付けられました。明治39年には岡倉天心が日本美術院の本拠をここに移し、横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山らと創作活動を、行いました。海に突き出た断崖上に見える赤い建物は天心が建てた六角堂であり、彼はここで太平洋を眺め、波の音を聞きながら、思索にふけったと言われております。六角堂周辺断崖に打ち寄せる波は、時にはやさしく、時...
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柴田稲作記念碑

(碑文)従四位勲三等安田定則篆額柴田翁名稲作常陸國多賀郡木皿村人也夙以勸業篤志聞家世為中山家郷士曽建言勸蠶桑起海産之事為主家町■納多賀海濱出明鮑者以此為始又植漆移温州橘此地有橘者亦翁之力也既而移居同郡大津専講魚貝罐藏鹽藏乾製煉製魚骨■製海藻乾製法頗有所得由此費資亦多矣大津東半里有一灣曰五浦自昔無開之者翁甚惜之因察風候視潮勢計較利害十有一年而心算既定朙治十四年請官蒙允許翌年始起工■岸通道砕匿巌除...
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旧天心邸

(説明板より)天心邸明治37年(1904)2月、自らの設計を平潟の棟梁小倉源蔵に託し、天心はボストン美術館の仕事のためアメリカへと旅立った。天心が五浦の地を手に入れた際には、鮑(あわび)料理の割烹観浦楼の建物がまだ残っていた。仮の住居に使っていたその建物の木材を使ったらしく、新居は豪華ではないが、風雅な趣となった。当初は62坪だったが、明治40年にさらに改築して拡張した。天心没後、西側にあった12...
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石碑「亜細亜ハ一な里」

(説明板より)『亜細亜ハ一な里』の石碑天心が没して25年後、日中戦争が勃発した。『東洋の理想』の冒頭の言葉「Asia is one」は大東亜共栄圏という戦争遂行の理念の一つとして利用され、一躍世に広まったそうした背景のもと、天心終焉の地・赤倉の土地保存のため、岡倉天心偉績顕彰会が昭和17年に設立された。これを機に五浦の土地建物が顕彰会に寄贈され、この碑が建立された。「亜細亜ハ一なり」の文字は横山大...
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六角堂

(説明板より)六角堂(観瀾亭)六角堂の解体修理の際に、屋根裏から天心の自筆の棟札が発見された。そこには、棟梁、平潟の大工小倉源蔵の名、明治38年の年記とともに「六角堂観瀾亭」と銘記されていた。瀾とは大波のことで、「波を見るためのあずまや」という意味になる。天心は、波に永遠性と絶え間ない変化を同時に認め、宇宙の本質と考えていた。六角の形は、杜甫の草堂にならいながら、朱塗りと屋根の宝珠が仏堂をも表し、...
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岡倉天心の墓地

(説明板より)岡倉天心の墓地この墓は日本美術院の主宰者岡倉天心の遺骨が、天心の辞世とされている和文の「我逝かば花な手向けそ浜千鳥 呼びかう声を印にて 落ち葉に深く埋めてよ 12万年明月の夜 弔い来ん人を松の影」およびAn Injunction(戒告)と題した英詩にもりこまれた遺志に沿い、天心没年の大正2年(1913)東京都の染井霊園の墓から、近代日本美術黎明の地五浦に分骨、埋葬されたものであり、歴...
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黄門の井戸

(説明板より)黄門の井戸元禄年間、徳川光圀公が領内巡視のおりこの地訪れた際、喉の渇きをおぼえ、井戸はないかと供のものが探しまわり、畦の脇に古井戸を発見した。ただし、水は底深く飲むことができず、光圀公が井戸を覗き見たときに杖が井戸の淵にあたり、水がコンコンと湧き出て難なく飲むことができた。その後、この井戸は「黄門の井戸」と呼ばれ、涼味溢れる水を永く土地の民に与えたといわれている。【場所】五浦観光ホテ...
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日本美術院研究所跡

日本美術院研究所跡の碑(昭和45年3月建之)(説明石碑・碑文より)天心遺跡記念公園(日本美術院第一部五浦研究所跡)ここは、岡倉天心(覚三)が、明治39年(1906)11月に、日本美術院を東京・谷中から五浦に移したとき、研究所(画塾)が建てられたところです五浦時代は、大正2年(1913)9月に、天心がなくなるまでの数年間にすぎませんでしたが、大観、観山、春草らは、天心の教えをうけて研究にはげみ、すぐ...
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長屋門

(説明板より)茨城大学五浦美術文化研究所ご案内当研究所は、近代日本を代表する思想家岡倉天心(1863~1913)の住居跡に設置されました。天心は明治政府の美術文化行政の確立のため目覚しい功績をあげ、26歳の若さで帝国博物館(現東京国立博物館)理事・美術部長、翌年には東京美術学校(現東京芸術大学)の校長となりました。1898年に博物館、美術学校を辞職し、橋本雅邦、横山大観らと日本美術院を創立。以後、...
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野口雨情の歌碑1

(碑文)磯原小唄野口雨情 詩篠井清水 曲二ツ島でもハ世間をネ世間をかねて テモヤレコラサ顔を見合せ朝夕にはなればなれに チョイト 暮らすもの碑文(裏)天妃山からハ東をネ東を見ればテモヤレコラサ見えはしないが見えたならあれはアメリカチョイト合衆国磯原小唄は郷土磯原を愛し 唄の聖と仰がれる野口雨情の詩である書は恩師雨情を思慕して忌辰墓参を怠らず 常陸磯原を第二の故郷とされ 千石舟船の味覚とともに この...
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